中高生向けにヒットしたアニメ映画らしい。原作小説は200万部以上も売れている。最初はアマプラで見掛けた。可愛らしい絵柄だが、どことなくアンニュイな表情をした登場人物達のビジュアルに惹かれた。
ストーリーは、いじめや家庭環境の問題によって精神的に孤立している中学生達が鏡の中の城で出会い1年を過ごすというもの。
思春期におけるいじめも孤立も、太古の昔から超未来まで無くなることはないのだろう。城に集められたのは男4人と女3人の計7人。その内6人が何らかの理由で学校で孤立し、不登校となっている。
その中に嬉野という男の子がいた。彼は気になる女の子に母親が作ったクッキーをプレゼントしたり、自分のペースでどんどん話し掛けたりする等、人一倍空気の読めない性格をしている。
中学生らしい純粋な態度として見ることもできるが、正直私にとっては、とても痛々しくて見ていられなかった。そしてやはり、裏で笑われたり、敬遠されたりしてしまう。
つまり、学校で孤立する7人を集めたとしても、その中に孤立する人が生まれてしまう。いじめという現象は集団の中で必然的に発生するのではないかと思わされる。
しかし、一番最初に孤立に立ち向かったのも嬉野だった。城の仲間に現実を突き付け、学校でいじめる者達に訴える。結局、学校では酷い仕打ちを受けて失敗するが、城の仲間には受け入れられた。真正面から立ち向かうというのは、半分正解で半分間違いなのだろうか。
主人公のこころは学校でいじめに遭い不登校になっていた。最初の頃の母親は、具体的な理由も言わずに腹痛で休むと言うこころに対して呆れた様子だった。
子供の気持ちに寄り添えない酷い母親なのかと最初は思った。でも違った。どう扱えば良いのか分からなかっただけだ。
フリースクールの先生に何度も相談していた。こころの担任がこころの気持ちに寄り添わず、表面上の穏便な解決を求めてきた時にも、強い態度でこころを守った。
子供を孤立から救えるのは周りにいて寄り添ってくれる大人だけなのだろうか。
こころをいじめていたのは真田と言う同級生の女の子だ。真田のいじめは凄まじい。人を使って相手の自尊心を徹底的に踏みにじる。自宅に大勢で押し掛けて窓をバンバン叩く様子は、さながら借金取りかホラー映画のようだった。
真田は謝罪の置き手紙をするが、その内容も酷い。全く問題の本質を理解していない。とりあえず謝っておけば良いという気持ちが見える。また、自分中心でこころが悩んでいる所とは全く関係ないズレた内容が続く。
人間関係の問題は話し合いで解決できるわけではない。言葉が通じても話が通じない人、自分の世界しか見えていない人が存在する。そういう人に真正面から立ち向かっても無駄だろう。
この映画で一番衝撃的な台詞は「たかが学校」だった。
不登校である6人は当然だが学校に行っていない。中学生にとって学校は自分が知る社会の大部分を占めている。それ程重要な学校に行かないでいる。それは彼らにとって人生から逃げるような後ろめたさがあるのかもしれない。
しかし、いざ学校を卒業してみると世界はもっともっと広大だということに気付く。それを知っているからこその「たかが学校」だろう。
現実世界には「かがみの孤城」は存在しない。孤立する子供達が一人でも多く、居場所を見付けたり、大人に手を差し伸べられたりして、救われることを願う。
以上。